大雲寺歴史年表(2017年版)
時代 |
和暦 |
西暦 |
月日 |
記 事 |
逆算 (年前) |
奈良 | 天平年間 | 733 | 本尊秘仏十一面観音 行基作 | 1284 | |
平安 | 延暦13年 | 794 | 桓武天皇 平安遷都 | 1223 | |
天安2年 | 858 | 8/2 | 国宝大雲寺梵鐘 鋳造銘 | 1159 | |
天禄2年 | 971 | 4/2 |
円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺めら |
1046 | |
天元3年 | 980 | 円融天皇が勅願寺と定める | 1037 | ||
天元4年 | 981 | 慈覚門徒(延暦寺)と智証門徒(三井寺)が法性寺座主職を争う | 1036 | ||
永観3年 | 985 | 2/22 |
朱雀天皇皇女、冷泉天皇后「昌子(しょうし)内親王」が観音院及び |
1032 | |
正暦2年 | 991 |
2/15 |
円融天皇崩御 (享年33歳) |
1026 | |
正暦4年 | 993 | 8/8 | 余慶門徒千余名が比叡山を下り大雲寺に入る | 1024 | |
長徳2年 | 996 | 3/28 | 文範(日野中納言)寂 | 1021 | |
長徳3年 | 997 | 4/18 | 慶祚(けいそ)阿闍梨八所大明神を勧請=「石座神社」 | 1020 | |
長保元年 | 999 | 12/1 |
具平親王 姉楽子内親王の周忌法要をおこなう(9月) |
1018 | |
寛弘5年 | 1008 | 4/24 | 文慶(もんけい)阿闍梨 大雲寺別当になる | 1009 | |
寛弘8年 | 1011 | 成尋生誕、7歳で出家大雲寺(文慶の室に入る) | 1006 | ||
長和3年 | 1014 | 10月 | 文慶阿闍梨 権正僧都に任ぜられ 三条天皇の護持僧となる | 1003 | |
寛仁2年 | 1018 | 12/22 | 慶祚(けいそ)阿闍梨寂 73歳 | 999 | |
万寿年中 | 1024〜1028文慶阿闍梨 龍神の霊夢にて「閼伽井」を得る | ||||
万寿5年 | 1028 | 「大雲寺勘録」銘 大雲寺四至(寺領の境界確定) | 989 | ||
5/3 |
明尊大僧正(円満院)が慈覚大師、如法経供養を執行の砌叡岳より |
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保安2年 | 1121 | 5/27 | 慈覚門徒により観音院焼失(直ぐに再興される) | 896 | |
保延2年 | 1136 | 3/12 | 慈覚門徒により観音院焼失(観音院再建されず) | 881 | |
長久2年 | 1041 | 成尋、大雲寺別当となる(師 文慶) | 976 | ||
永承元年 | 1046 | 7/2 | 文慶阿闍梨 寂 81歳 | 971 | |
延久元年 | 1069 | 3/15 | 後三条天皇第三皇女、大雲寺に参籠して脳病を治癒する | 948 | |
4年 | 1072 | 10/6 | 成尋阿闍梨入宋(61歳-弟子7人を同行する) | 945 | |
永保元年 | 1081 | 10/6 |
成尋阿闍梨 東京(トンキン)開宝寺にて示寂(71歳 元豊4.10.6) |
936 | |
応徳2年 | 1085 | 9/26 | 「検非違使庁勘録状」にて、地頭分・諸役検断権・堰料・河水権を大雲寺寺家が管領するものとされ、その四至は東は安禅寺坂旧岡に限り、西は篠原大道西端に限り、南は木行坂峠に限り、北は静原氷室山谷河越に限と定められる 。 | 932 | |
長寛元年 | 1163 | 6/9 | 鞍馬寺僧徒により大雲寺伽藍焼失(すみやかに復興) | 854 | |
鎌倉 | 建久3年 | 1192 | 源頼朝 鎌倉に幕府を開く | 825 | |
南北朝 | 建武元年 | 1334 | 建武の中興 | 683 | |
元弘4年 |
1334 | 10/5 |
藤原藤房(万里小路藤房)・不二房(大雲寺)にて出家する(39歳) |
683 | |
室町 | 応永8年 | 1401 | 義運(実相院12世)成金剛院にて大雲寺事務管領する | 616 | |
応永18年 | 1411 | 大雲寺境内に蘭若(らんにゃ)造立=「岩倉実相院」 | 606 | ||
応仁元年 | 1467 | 応仁の乱勃発 | 550 | ||
文明6年 | 1474 | 日野富子により大雲寺伽藍修造される | 543 | ||
文明6年 | 1474 | 5/19 | 実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く | 543 | |
文亀2年 | 1502 |
8/6
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実相院門跡義忠(1479〜1502)が将軍足利義澄の命によって殺害され(『後法興院記』文亀2年8月6日条)、実相院領は収公され、将軍夫人日野氏領となった(『後法興院記』文亀2年8月9日条)。これによって、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りをみせ、大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功 | 515 | |
永承12年 | 1515 | 実相院門跡と大雲寺衆徒の対立 が激化 | |||
天文15年 | 1546 | 10/28 | 【天文の法難】細川玄蕃・山本修理の抗争に巻き込まれ全山灰燼となる。※この合戦により本尊十一面観音宝冠を損傷する。智光房弟庵に暫く安置する。 | 471 | |
天文20年 | 1551 | 9/4 | 三好長慶 岩倉に攻め入る。里家屋、社寺、山林焼失。石座神社・大雲寺灰燼となる。 | 466 | |
本尊を鞍馬寺に預ける | |||||
天文22年 | 1553 | 11/18 | 石座神社再興・大雲寺再興 | 464 | |
永禄3年 | 1560 | 11/18 | 本尊十一面観音を禁封し秘仏と定める=明学坊永源 | 457 | |
元亀4年 | 1573 | 織田信長配下 明智光秀軍大雲寺を焼き討ち | 444 | ||
桃山 | 天正13年 | 1585 | 豊臣秀吉関白となる | 432 | |
慶長5年 | 1600 | 関ヶ原の戦い | 417 | ||
江戸 | 寛永18年 | 1641 |
義尊(足利15代義明の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲。 |
376 | |
正保2年 | 1645 | 10/10 | 義尊の母 法誓院三位局(ほっせいいんさんみのつぼね)新本尊を大雲寺に寄進(中性院 日護作) | 372 | |
明暦元年 | 1655 | 大雲寺鐘楼建立 | 362 | ||
元禄3年 | 1690 | 3/27 | 義延、秘仏開帳(7/27迄の四カ月間)永禄の禁封より131年目 | 327 | |
元禄11年 | 1699 | 大雲寺 正教院 恕融(じょうゆう)『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂 | 318 | ||
明治 | 明治元年 | 1868 |
明治維新・神仏分離令・廃仏毀釈運動おこる |
149 | |
明治12年 | 1879 | 2月 | 宝塔院・正教院・不二坊の廃絶を届ける(「愛宕郡寺院明細帳」394、大雲寺〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉) | 138 | |
大正 | 大正7年 | 1918 | 北野神社神官 山本興三郎(定 阿)岩倉村概誌 編纂 | 99 | |
昭和 | 昭和60 | 1985 | 5/20 |
昭和の法難 寛永18年建立の大雲寺本堂が消失する |
32 |
7/17 | 篤志家 山田一男氏の寄進により仮本堂竣工 | ||||
昭和61年 | 1986 | 大雲寺霊園整備 | 31 | ||
平成 | 平成8年 | 1996 | 11月 | 郷土史研究家 竹田 源(はじめ)氏)『大雲寺堂社旧跡纂要』の現代訳を著す。 | 21 |
平成10年 | 1998 | 10/20 | 現住職昭和60年に散逸した寺宝178点全てを大雲寺に取り戻す | 19 | |
平成15年 | 2003 | 8/7 | 現住職 智弁大師霊廟にて御霊入魂式を行う(昭和60年5月より霊廟の頭部を本堂に安置するが、この際元へもどす。) | 14 |