行基 ぎょうき 天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)
日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
大雲寺秘仏 十一面観音像作成(733年)
『四聖の御影』
中央 聖武天皇
右手前 行基
円融天皇 大雲寺を勅願寺に定める
第64代天皇・御 名:守平親王(モリヒラ)・生没年:天徳3(959)年〜正暦2(991)年・在 位:安和2(969)年〜永観2(984)年・続 柄:(父)村上天皇、(母)中宮藤原安子9歳で兄冷泉天皇の皇太子となり、11歳で兄帝の譲位を受けて即位した。これ以前に兄の為平親王も皇太子候補となっていたが、為平親王は源高明の娘を妃としていたため、藤原摂関家の圧力により守平親王が立太子したのであった。即位後は天皇が若年であったこともあり、大伯父藤原実頼が摂政を務め、実頼逝去後も藤原摂関家が政を行うが、兼通、兼家の間で摂関職を巡る内紛が起きた。これにより摂関家は次々と自分の娘を女御として入内させたが、結局皇子を生んだのは兼家の娘詮子のみであった。(生まれた皇子は懐仁親王、後の一条天皇)この様な政局争いに嫌気がさした天皇は懐仁親王の立太子を条件に甥の師貞親王(花山天皇)に譲位。上皇となってからは諸寺に行幸したり、歌会を催したりしている。皇子の一条天皇が即位してからは、天皇の父として影響力を及ぼし院政を行う意図があったという。在位16年、上皇年数7年、宝算33歳。 (肖像画 馬淵法眼筆)
円融天皇 御陵 京都市右京区宇多野福王寺町
文範
真覚
昌子内親王
余慶(智弁大師)
文慶(もんけい) 966(康保3年)〜1046(永承元年)
文慶は藤原佐里(三筆の佐里とは別人)の子で、余慶に顕密をまなび,ついで勧修,勝算に師事。大雲寺の別当となり,長和3年から園城寺長吏を3度つとめた。永承元年7月2日死去。81歳。
初代大雲寺検校となり、明王院法印と号した。正暦2年(991)12月に勝算より三部大法職位を受法した(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。寛弘5年(1008)に一条天皇の内親王が病となるも平癒しており、この時文慶は平癒の祈祷を行ったため、一条天皇の希望により文慶は4月24日に権律師に補任された(『御堂関白記』寛弘5年4月24日条)。寛弘8年(1011)に律師となる(興福寺本『僧綱補任』第3、寛弘8年条)。長和3年(1014)10月28日に護持僧となり(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)、同年10月28日に権小僧都となった(興福寺本『僧綱補任』第3、長和3年 長和3年(1014)第19世園城寺長吏に補任され、3年間後に離任したが、寛仁3年(1019)から10年間、長元2年(1029)から1年間と、園城寺長吏職を三任した(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。その間、治安3年(1023)12月29日に権大僧都となるも(興福寺本『僧綱補任』第3、治安3年条)、翌治安4年(1024)に病のため辞職を申し出ており(興福寺本『僧綱補任』第3、万寿元年条)、同年6月26日に宣旨により官職を停止された(『小右記』万寿元年7月11日条)。永承元年(1046)7月2日に示寂した。81歳(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。弟子に成尋がおり、また興昭(生没年不明)・芳盛(生没年不明)・清台(生没年不明)・文円(生没年不明)・行意(生没年不明)・慶縁(生没年不明)・雅縁(生没年不明)・証真(生没年不明)・観音院阿闍梨となった昌範(生没年不明)・雅円(1005〜60)・成尋・悟覚(敦儀親王、997〜1054)に付法した(『伝法潅頂血脈譜』文慶下)。文慶は大雲寺に如意輪観音を本尊とする持宝院を建立している(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)
成尋阿闍梨(じょうじんあじゃり) (1011-1081)
大雲寺5世 平安中期の入宋僧。日宋文化交流に大きな役割を果たし,滞宋中の始終を記した『参天台五台山記』の著で有名。藤原貞叙の子。母は源俊賢の娘ともされ『成尋阿闍梨母集』で広く知られている。7歳にして京都岩倉大雲寺の文慶の室に入った。文慶は当寺最初の検校で三条天皇の護持僧や三井寺長吏に任じられた名僧であったが,成尋は彼のあとを継ぎ長久2(1041)年,31歳で大雲寺の別当になり,以後,31年間在職した。この間,彼は胎蔵,金剛,蘇悉地の大法や護摩秘法などの密教の秘法を文慶,悟円,行円の各師に学び,一方,法華経の精義にも通じ宮中の法華八講に出仕し,延暦寺の阿闍梨に任じられ,藤原頼通の護持僧を20年間にわたって勤めるなど,その活躍は順風満帆を思わせた。しかし早くから入宋して五百羅漢常住の地天台山と文殊化現の山五台山を巡礼する志が強く、康平3(1060)年,三井の新羅明神(大津市園城寺の鎮守神)に渡海の祈請をし、延久2(1070)年,入宋の許可を請う奏状を朝廷に奉る。延久4(1072)年3月肥前国松浦郡壁島(佐賀県東松浦郡呼子町加部島)より出帆した(※1)。入宋の許しを朝廷委への上奏文には「願が叶うまで一時たりとも横になって寝たことはない」と精進を積んだことを記している。入宋前後の事情については前記『母集』に詳しい。渡宋後は両山を巡礼し,皇帝神宗に謁見を許され,祈雨の秘法を行ずるなどの活躍をして善慧大師の号を賜ったが,ついに帰国することなく,彼の地に71歳の生涯を閉じている。平林文雄『参天台五台山記校本並に研究』 その後太平興国伝法院に住し,同地における訳経事業にも参加した。73年夏,祈雨の修法をなして,宋朝より善慧大師の号を受け,かつ同年には大小乗経律論527巻を便船に託して大雲寺に送った。翌年には宝物を白河天皇に献じ、宋の皇后より贈られた十六羅漢像等を大雲寺に寄せた。
※1 「元享釈書巻16記述」唐人-船頭 孫忠所有船とある
成尋阿闍梨画像は叡山文庫蔵
成尋阿闍梨の母=老いて子と別れる悲しみ
「成尋阿闍梨 母集」
忍べども 子の別れ路(ぢ)を 思うには
唐紅(からくれない)の 涙こそふれ
成尋が住した開宝寺の「開宝寺塔]
開封城北東の隅にある鉄塔公園の中にある。塔の全体は茶色の瑠璃レンガで貼り付けられ、遠くから見ると、 まるで鉄のように見えるので民間では「鉄塔」と呼ばれる。宋の皇祐(1049年)に建てられ、成尋入宋当時のままの佇まいを900年今日まで残す。1961年に中国国務院から国家重要文化財と指定した。
神宗皇帝(しんそうこうてい)から善慧大師の号を受け、訳経場の監事を務めるなど、信望が厚く71歳の天寿を宋に捧げた。その遺徳はいまも開封に伝えられ、鉄塔公園には左記「成尋像」がかざられている。
神宗皇帝
万里小路藤原藤房
万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。
江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている.。画像は(集古十種より)